ニュージーランド移住を目指す夫婦のブログ

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まずははじめの一歩、2018年11月から南島オアマルで生活をはじめました。

海外からNHKが、完全無料でリアルタイムで見れる

先日このような記事を書いたのですが・・ 


NHK 総合Eテレは、完全無料で、しかもリアルタイム放送で視聴できる「NHK プラス」というサービスがあると知りました。残念ながらNHK BSは対象外です。

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【オアマル】歴史を知って、もっと好きになった

オアマルの観光インフォメーションセンター(i-SITE)が閉業することとなり、先週末に物販セールが行われていました。

そこに「知られざる先駆者達の偉大な物語 -Oamaru-」という日本語タイトルのDVDが置かれていました。いろいろな物販と抱き合わせてお会計したので、これが売り物だったのか、それとも閉業に伴う無料配布だったのかは分かりません。値札は付いていませんでした。

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家に帰って早速パソコンで視聴してみました。

オアマルの歴史が紐解かれている動画で、次のような語りからはじまります。

19世紀後半、ニュージーランドにひとつの町がありました。


当時のロサンゼルスほどに大きく、

1年に450隻以上もの船が出入りし国際貿易に沸き立ち、

17軒のホテル、そして数多くの売春宿の喧騒に包まれ、

ロケット装備の海難救助隊を持ち、

ビクトリア朝風の高層建築に囲まれ、

時代を超越した独特の建築様式を持ち、

ついにはニュージーランド最大の負債まで抱え込んだことのある町。


その町を「オアマル」といいます。

 

歴史を知ると、よりこの町に愛着が湧きました。

動画で学んだオアマルの歴史を少しご紹介したいと思います!

 

町のはじまり

1853年、オアマルに最初のヨーロッパ系移民 Hugh Robinson(ヒュー・ロビンソン) がやってきた。平坦で樹木が少ない地形のため、開発しやすい土地であった。

当時、ニュージーランド北島ではマオリ戦争が続いていた。そんななかオアマルはオタゴ地方の穀物生産とゴールドラッシュの波に乗り、ほかの町に先駆けて急速に発展していった。

好景気に沸くオアマル

ヒュー・ロビンソンが移り住んでからわずか6年後には、町は区画整備され、道路の総延長が30マイル(≒約48キロ)にもなる都市へと成長していた。

 

町の産業の成長に伴い、オアマルの港も発展していった。
当時のオアマル港は簡素なもので悪天候では多くの船が難破していたため、1869年にロケット(難波した船を助けるためのロープを渡すロケット)を装備した海援救助隊が設立された。港には多いときで1年に450隻以上もの船が乗り入れた。

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町は多くの船乗りたちでにぎわうようになった。
そして、船乗りたちの娯楽としてホテル、売春宿、醸造所などの産業が発展していった。

当時のホテルのうち2軒が現在も残っている。1つはハーバーストリート入口にある「Criterion Hotel」(1877年建設)、もう1つはテムズストリートにある「Brydone Hotel」(1881年建設)だ。

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↑Criterion Hotelは現在閉業していますが、Otago Daily Timesによると将来的には営業再開予定とのこと。

「Brydone Hotel」の名は、1881年にはじめてイギリスに冷凍肉を輸出したThomas Brydone(トーマス・ブライドン)にちなんでいる。冷凍肉の輸出はのちに国の主要産業のひとつとなり、ニュージーランドが農業大国となる礎を築いた。
ブライドンが管理した牧場「Totara Estate」は当時15,000エーカー(東京ドーム約1,300個分)もの面積があり、広大なものであった。

 

町の急速な発展に伴い建設ラッシュが起こり、若い建設労働者たちも多くやってきた。

オアマルは樹木が少ない土地だったため建築資材の入手が難しく、代わりにこの土地で採れる石灰岩「オアマルストーン」が使われた。オアマルストーンにより、現在も町を美しく彩る荘厳な建築物が建てられていった。

 

代表的な建物のひとつに「エレベータービル」と呼ばれたビルがある。1883年建設の5階建て高層ビルで、内部には当時最新の水力技術を用い、25トンもの穀物を運搬するエレベーターが備わっていた。その後火災により上層階は消失してしまい、3階建ての建物となった。現在は「Steampunk HQ」として人気の観光スポットとなっている。

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アマルストーンを使い銀行、裁判所などが建てられ、そしてホテルや商店なども立ち並ぶ「テムズストリート」という大通りができた。

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現在のテムズストリート。左に見える時計台の建物はWaitaki District Council(役所)、右手前に見える建物が今回閉館したi-SITE、その奥の建物が銀行。

 

19世紀末(1800年代後半)のオアマルは、当時のロサンゼルスと並ぶほど繁栄し、人で賑わう町であった。

しかしその一方で、無許可の酒屋も多く乱立し、1880年代末期にはオアマルはオタゴ地方の無法地帯として悪名が轟くようになっていた。

急激な衰退

急に発展したのと同じように、終わりも急に訪れた。

ゴールドラッシュの終焉に伴い、1890年代にはオアマルの産業を支えていた穀物等の価格も急速に下落、建設ラッシュも去り、労働者達は仕事を求めてほかの町へと出て行った。

オアマル港もまた、新型の大きな船舶には対応できず、その役割が薄れていった。

船乗りや建設労働者たちが減り、町では長老派教会などの働きにより治安改善/労働環境改善の動きが高まった。1906年には禁酒法が施行された。  

 

この頃から、町の財政は傾き始める。

これまで爆発的な好景気と成長によりオアマルには比較的容易にインフラ融資が行われていたが、成長が止まったことで経済は著しく衰退、債務も急速に膨らんでいった。1900年代初頭、なんとオアマルはニュージーランドで一番負債を抱える町となった。

 

その後、半世紀以上にわたり、オアマルの歴史的な建物や地域は財政難により手入れされず、さながらゴーストタウンのようであった。

皮肉なことに、現在においても当時の建物が現存しているのは、オアマルが長きにわたって開発や投資から見放されてきたためである。

そして現在

オアマルの美しい建築物は、ニュージーランドの町のなかでもオアマルを独特なものにし、観光客を魅了している。

オアマルでは毎年、かつて19世紀にこの町を築き上げた先人たちの精神を振り返る歴史週間を設け、町の歴史を祝っている。

 ↓そのお祭りがこちら 

 

 

・・・

こういった、歴史的背景を知ってから町を歩くと、これまでとは違う楽しみがあります。

オアマルに少しでも興味を持っていただける方が増えたら嬉しいです。

ニュージーランドの南島観光の際は、ぜひ立ち寄ってみてください^^